2017年8月17日木曜日

ヴェーダーンタの教えは、一部の特権階級だけに許されたものなのか?



答えから先に言うと、
ヴェーダーンタの教えは、時代や人種・階級・国籍・性別等では変わらない、
本質を教えているものなので、それらによって制限されるものではありません。
その人が、ヴェーダーンタの教えを知る必要性に気づく分別を持ち合わせ、
教えを聴いたときに理解出来る準備(アディカーリットヴァ)、つまり、
人間としての精神的な成長を遂げた心を持っていれば、
その人にとって、ヴェーダーンタを聴き、理解することを妨げるものはありません。

しかし、ヴェーダーンタは、ヴェーダの一部です。

ヴェーダのマントラを正式に学ぶためには、यज्ञोपवीत(ヤッグニョーパヴィータ、斜めがけの糸)を付けていなければいけません。यज्ञोपवीतを付けているということは、ウパナヤナという儀式を受けて、毎日ガーヤットリーをチャンティングして、サンディヤー・ヴァンダナをしているということです。さらに毎月のようにある特別な日に特別な祈りの儀式をして、つねに世界中の人々の幸せを願っているのです。(私達は彼らに感謝しなければなりません。)もちろん、肉食や飲酒など宗教的に不清潔とされる生活習慣などとは相容れません。
ウパナヤナの儀式をを受けられるのは、ブランミン、クシャットリヤ、ヴァイッシャの男子(昔は女子もOKだったそうです。)だけなので、ヴェーダ、そしてヴェーダーンタを原典から正式に学ぶことが出来る人は、おのずと限られてきますね。

しかし、ヴェーダーンタの教えは、ヴェーダだけではなく、同じ教えがギーターなどのスムルティの文献や、タットヴァ・ボーダなどのプラカラナ・グランタという、ヴェーダのような厳しい制限が必要の無い形で教えられています。
ギーター自身でも、女性もシュードラでも、ヴェーダーンタの教えを得られると言われています。(9.32)

私の恩師、ダヤーナンダ・サラッスヴァティは、यज्ञोपवीतをつけていない、つまり、女性や外国人にも教えているということで、今の時代でもあれこれいうブランミン達は居ることは居ます。
しかし、その教えが純粋な伝統に従っていることから、現存する伝統の最高権威であるシュリンゲーリのシャンカラーチャーリヤから、その伝統の教えを表彰された、唯一のヴェーダーンタのアーチャーリヤ(先生)でもあります。

ヴェーダーンタの教えは、人種や階級や時代などに左右されない、本質を教えていますから、聴きたい・知りたい・知らなければならない、と気づいた人なら、特権やお金が無くても、国籍や性別に関わりなく、誰でも聴けるようになっています。

そして、その人が精神的に成長していれば、つまりヴェーダーンタを理解するためのマインドが準備されているのなら、先述のギーターの言葉にもあるように、きちんと問題なく理解も出来ます。

しかし、聴く人が精神的に成長していなければ、ヴェーダーンタの教えはとても危険です。
それも、ギーター自身が教えています。
(न बुद्धिभेदं जनयेद् अज्ञानां कर्मसङ्गिनाम् । カルマに固執し、分別の無い人々の考えを混乱させてはなりません。3.26)
(इदं ते नातपस्काय नाभक्ताय कदाचन। न चाशुश्रूषवे वाच्यं न च मां योऽभ्यसूयति ॥
あなた(アルジュナ)へのこの教えは、タパスをしていない人、先生・デーヴァを持たない人、セーヴァーをしない人、私(クリシュナ)を単なる人間だと思っている人には教えてはなりません。18.67)

そして、カリユガだからか、ヴェーダーンタを伝統に沿った正しい先生から聴こうとしたり、サンスクリットを学ぶことの出来るマインドを持った人は、非常に少ないのが現実です。
お金も特権も要らず、誰でも聴けるようになっているのですが、それさえも知られていません。そんな情報をキャッチできるアンテナを持っている人が、ごく稀だからです。

今回の人生で、ヴェーダーンタの正しい教えに出会い、それを座って聴いていられるマインドを持っている人は、前世から今世までずっと、その為に必要なヴェーダの儀式も、ガーヤットリー・ジャパも、サンディヤー・ヴァンダナもして来た人です。
もし、今世でしていないなら、前世までにして来た、と捉えて良いでしょう。
ヴェーダーンタの教えを1時間座り続けて聴いていられる、というのが、何よりの証拠です。


そして、何がタパスなのか、デーヴァなのか、セーヴァーなのか、それらは教えてもらわなければ分かりません。それらが何なのか、特にダルマとは何なのかについては、直接ヴェーダーンタに繋がらなくても、聴く人の幸福を向上することは出来るので、より多くの人に知る機会を持ってもらうことは、伝統的な視点から見ても、推奨されるべきことです。

「好きなことだけしかしない」の裏にある日本社会の問題

「好きなことだけしかしない」というのが、日本で今流行っているキーワードだと聞きました。確かに、本の検索をするといっぱい出て来る!こちらにあるように。

「好きなこと『だけ』」 とわざわざ、「だけ」とあることから、
好きではないことは、それがしなくてはならないことでも、しなくてもいいことでも、
とにかく一切しない、という意味になりますね。
そういう意味は極端~!というなら、「だけ」という言葉は使わないはずです。
まず、ことばの定義をしっかり。


A:でもさ、「嫌いなこと」で、「しなくてもいいこと」だったら最初からしなければいいじゃん?

B:いやいや、「嫌いなこと」でも、「しないといけないこと、するべきこと」っていうのがあるからさ、それをしないで、好きなことだけして生きていくの!

A:でもさ、「しないといけないこと、するべきこと」だったら、それは好きでも嫌いでもしないといけないから、それが嫌いなら好きになることを学べばいいだけじゃん。(それが出来る人=成功する人だったりするわけで。)

B:「しないといけないこと」なんて、しなくてもいいんだよ!好きなことだけしておけば!

A:しなくてもいいんだったら、それは最初から、「しないといけないこと」とは呼べないでしょ?

しなくてもいいことを、「しないといけない」と思っていたり、しないといけないのに、「しなくてもいい」と思っているなら、それは混乱しているってことよね?(というか、それちょっとアホ。)好きとか嫌いとか関係ないし。
 
そもそも自分の中で、社会の中で、「するべきこと」と、「しなくてもいいこと」、さらに「しないほうがいいこと」が、ごっちゃになって混乱しきっているのが問題ってことに気づかなきゃね。

混乱した社会の価値観から一旦抜け出してみる手段として、自分の「好き・嫌い」基準は、一時的にはいいかもしれないけど、そこからもう一歩先に進めるようになって欲しい。

今自分がするべきだと思っていることが、本当に、するべきことなのかどうかの賢い分別をつけるために、歪んだ社会の価値観や混乱した既成概念から抜け出し、もっと根本的に人間として正しい価値観・価値基準を見つけられるようになって欲しいです。

ヴェーダの文化では、「するべきこと」とは、その人の精神的・人間的な成長に繋がる行為を指します。

例えば、わかり易いところなら、ヨーガ・スートラで教えられている「ヤマ・二ヤマ」に沿った生活とか。

でも、現代の日本ではそれは難しいから、「好き・嫌い」に頼るしかないんだろうな。。。

2017年8月13日日曜日

サンスクリットの出典について

マントラやシュローカを引用した場合、
人類の脳みその機能が著しく低下している、カリユガの現代だからこそ、
出典(○○ウパニシャッドの○章○節、とか)を記載する習慣がありますが、

もともとは、「みんな全部知ってるよね?全部頭に入ってるよね?」
が大前提だったので、引用は出典が言及されることなく、
アーチャーリヤ達によって縦横無尽にされていました。
それは今でも伝統的な口頭の教えでは続けられていますが。

私自身も今回は現代に生まれて来たので、
出典のお世話になっていて、引用元に行って調べたり、
出典を書いたりする癖は知らない間に付いていて、番号も一緒に覚えてしまうタイプです。
ウパニシャッドやギーターを引用した場合は、そこに行ってちゃんと勉強して欲しいので番号を書きますが、ヴィシュヌ・サハッスラ・ナーマとか、アーディッディヤ・リダヤとかいった、それらが既に独立したお祈りになっている場合は、学術書でもない限り、チャンティングの本までに、マハーバーラタやラーマーヤナのどこどこの部分、と「私知ってます!調べました!」と手柄のように書くのは、読む人の知りたい情報では無いわな、という感じで、使い分けています。
本当に出典を知りたいのなら、インターネットの時代、すぐに調べられるのだから、
引用されている言葉がはっきりしている場合、
出典が無くて困るのは、本当にリテラシーの低い人だけ、ということになりますね。理屈で言うと。

前のコースでは、ヴェーダーンタを教えるアーチャーリヤに、
「講義の中で、引用するなら、必ず出典の番号まで言って!そうじゃなきゃ引用しないで!」
と押し付けていた西洋人女性がいました。。。そういう傲慢な人に限って、
シュローカもマントラも、全くひとつも覚えられないんですよね。。。
私はアーチャーリヤが何か引用するたびにメモって、後で、
アーチャーリヤもしくは頭の良さそうなブランマチャーリンの時間がありそうな時を狙って、
今日一日分の引用をまとめて訊いていました。
聞き取れない言葉も多いので、Yahoo!知恵袋の「タララ~ンって曲の題名教えて下さい」
のノリになることが多かったですが、それはそれですごく楽しかったです。
正しい言葉を教えてもらって、どの文献のだいたいどの部分かを教えてもらって、
後は自分で調べますね~としていました。
根気よく付き合ってくれた、アーチャーリヤとブランマチャーリン達に感謝が尽きません。。。 

シャンカラのバーシヤでも、引用は縦横無尽にバシバシされていました。
後世になって出典を探して、書き入れているので、
似たようなマントラやシュローカがある場合、出典が違っていたりします。
また、シャンカラの時代から現代までに失われた文献も多く、
出典が分からないものもたくさんあります。

文法書も然りです。
パーニニ文法を形成している3つの原典:
1.パーニニによるスートラ
2.ヴァラルチによるヴァールティカ
3.パタンジャリによるマハーバーシヤ
も、実は、ヴァールティカは全形では残っておらず、
マハーバーシヤの中での引用から知るしかないということです。


また、原典というステータスは無いけれども、
ポイントをまとめて覚えやすくしているシュローカはいろいろあります。
6つのタイプのスートラ、इट्の付かない母音で終わるダートゥ、
等をまとめたシュローカは、ありとあらゆるものについてあります。

原典には必ず、伝統の教えがセットになって付いてきます。
だから原典だけを読んでも、正しい理解に繋がるとは限りません。

原典を伝統の教えに沿って理解できることをまとめたシュローカである、
ということを理解していない人には、それが原典となってしまう、
というあべこべなことが起きてしまいます。


私の書いている教科書でも、覚えやすいシュローカとかは、
参考までにメモとして集めているのですが、
私の教科書を使ってもらっている、ある国の大学院の先生から、
「このシュローカの出典は?」とよく訊かれます。
原典ならトラックできますが、覚えとくといいよ系のシュローカは、
こんなん書いた暇な奴誰や?という、違う意味で、こっちが知りたいので、
「そういうの調べるために大学があるんでしょ?分かったら教えて」という姿勢にしています。

そういう、覚えとくと良いよ系のシュローカについては、
私の先生の口頭からの書き取り、もしくは、
これまた出典の記載のない参考書からのコピー、しかも、
いろんなヴァージョンあるし、自分が使えると思ったものを自分の分別で使えば?
というのが私の姿勢であり、インドものはそういう感じです。

もし出典を見つけたら、「俺の手柄!私の手柄!」となり、
出典が見つからないなら役に立つものでも捨ててしまう、
というのがアカデミアの姿勢なのかな?
そしたら、シャンカラの引用とか、パタンジャリの引用は?
と疑ってしまう。。。

そういうわけで、最近、
「引用にはちゃんと全部出典つけてよね!」という「ちゃんと」と、
「そんな本質的でないデータ収集に忙殺されるんじゃなくて、
ちゃんと本質を見抜けるようになってよ!」と私が言いたい「ちゃんと」の意味が、
全然ちがうな~、と実感させられています。

データの収集=学問
となっているなぁ、と感じます。

全ては本質を見極める為にあるのに。。
伝統を知る先生に付き、生徒にも器が無ければ、本質を知ることは無理ですが。

本質が見極められていないから、
データを収集して安心しようとするのは、よく見られる現象ですけどね。。。

膨大なデータ収集している機関のサイトを教えてもらいましたが、
(こちらのアシュラムで作成されたデータも収録されています)
どれだけデータを集めても、そこに命を吹き込むには、
一回ちゃんと先生について学ばなければ、意味ない、
という良い例が、そのサイトを使って独自で研究している人です。。

膨大なPDF等のデータや、講義のMP3の録音を、
1TBのハードディスクに詰め込んで、満足しているブランマチャーリンは沢山いますが、
どれだけデータを集めても、それが、
このド頭の中で処理されて、
このド頭の中で何かが起きなければ、
意味が無いのですよ!
と、私はいつも言っています。

最近、すごいスピードで、あらゆる文献がデジタル化されていて、
前のコースではみんな何冊も文法書を持ち込んでいたのに、
今回のコースでは皆、タブレットやiPhoneで検索できるようになした。
これに関しては、すごく恩恵を受けています。
誤字脱字がものすごく多いですが、それでも有難いです。

2017年8月5日土曜日

広島での宿泊について

祈りのキャンプin広島2018冬は、

告知から一日で、女性の宿泊が満席になりました。

プージャ・スワミジのグレースですね。

男性の宿泊はまだ空きがあります。

これからの宿泊のお申し込みについては、会場となる広島の太光寺さんの最寄りのビジネスホテルをご紹介してくれています。

お寺に宿泊の場合と違って、個室&専用のお風呂でゆっくりできますし、会場までのタクシーの相乗り希望者のお名前を互いに交換できるようにアレンジしますので、ご検討ください。

 https://aarshadarshanamm.blogspot.in/2017/08/in-medha-michika-mukti-12medha-michika.html

2017年8月3日木曜日

祈りのキャンプ in 広島 2018・冬



来年の年明けに広島で豪華なお祭りをします!
職業や趣味に関わらず、より多くの皆さんをご招待したかったので、
今日という吉兆な日を、この嬉しいお知らせの告知開始日に選びました。
来年の1月12日(金)~14日(日)に広島にて、
2.5日間の祈りのキャンプを開催します。
詳細はこちらから
今回オーガナイズをして下さったDrshtiあい先生(インドで勉強中)、和美先生(在フランス)、そしてゲスト友情出演のMukti先生のご協力を得て、私達の恩師プージャ・スワミジが私達に与えてくれた教えと精神を、恩師が数年前に来日講義をされたゆかりの場所である広島の太光寺にて、皆さんとシェア出来るとても嬉しい機会がもてる運びとなりました。
スワミジのアシュラムで毎日朝から晩まで、全て受け取るのは無理なほどに、降り注ぐように与え続けてもらった教え、ブレッシング、食べ物、そしてこの世界にいる安心感を、ほんの2.5日間だけですが、できるだけ多くの人とシェアしたいという気持ちで企画をしました。
内容は盛りだくさんに盛り過ぎたので、リンクから詳細をご覧ください。
祈りについてのクラスでは、毎日の生活の中の全ての行い・全ての出来事に深く関わっているサンスクリット語の祈りの意味を詳しく解説します。プージャーについての解説のクラスもMukti先生が教えてくれます。また、レベルごとに分けたチャンティングの練習のクラスも連日あります。特に1月14日は南インドの収穫感謝祭であるポンガルなので、特別なプージャーを執り行います。
クラスも盛りだくさんですが、朝夕のプラサーダム(プージャーのお下がりの供物)、午前と午後のティータイム、軽食、そしてランチは連日豪華で、パニール入りのカレーにいろいろアイテムが付いてきます。プージャ・スワミジが、アシュラムに来る人にはどんな人でも、いいものをお腹いっぱい食べてもらいなさい、と仰っていたのを思い出しながらメニューを選びました。宿泊される方には、朝食と夕食も提供します。
そしてこちらが本当の目玉なのですが、このキャンプの費用は、参加費や食費を課金するのではなく、こちらのアシュラムのように、全て寄付でまかなうことにしました。
このキャンプにおいて、私達の願う「成功」とは、ひとりでも多くの人に、「タダで、朝から晩までこんなに盛りだくさんのクラスと食べ物で、お腹いっぱいになれて、すごくラッキー!楽しかった!こういうインドの文化って、いったい何なんだろうね?」と思ってもらう事です。
寄付は事前から募りますが、不足すれば、私達が自腹で費用を負担しようね、と決めています。インドに続く教えの伝統にある、「giving(与えること)というスピリットを、多くの人に体験してもらいたいからです。

このキャンプが、寄付を希望される方にとっては、消費者から貢献者へと、人間を進化させてくれる唯一の手段である「giving(与えること)」の実践・体験してもらえる機会になることを願っているのと同時に、
それよりももっと多くの人に、全ては「given(与えられていること)」の実感をしていただける機会になりますように!と願っています。
そういうわけで、この広島キャンプには、多様な方面からたくさんの方々に来ていただきたいので、皆さんお誘いあわせの上、どうぞ来年の年明けに、広島までお越しください。
皆さんとお会いできるのを楽しみにしております。。

2017年7月31日月曜日

2500年前のプログラム言語、パーニニースートラの世界

投稿でずらりと書いた計算式のようなものは、
約2500年前に作られたパーニニ・スートラという
サンスクリット語を基にしたメタ言語(人工言語)で、
サンスクリット語の文法体系を表しています。
現代のプログラム言語の元祖と言われているように、
サンスクリット語の言葉を生成する仕組みを指示や定義の形で表しています。

サンスクリット語学習者におなじみの、
SHABDA MANJARI by R.S. Vadhyar & Sons
そこで紹介されていた、あまり見かけない言葉、「तस्थिवस् 」。
言葉の生成がどうなってるのか気になったので調べてみました。
 
http://panini-japan.blogspot.in/2017/07/blog-post_31.html


Derivation of the प्रातिपदिक तस्थिवस्
स्था + लिट्                     3.2.115 परोक्षे लिट् । ~ भूते धातोः प्रत्ययः परश्च
स्था + क्वसुँ                     3.2.107 क्वसुश्च । ~ लिटः
स्था + इट् वस्                 7.2.35 आर्धधातुकस्येड् वलादेः ।
स्था स्था + इवस्              6.1.8 लिटि धातोरनभ्यासस्य । ~ प्रथमस्य एकाचः द्वे
स्थ स्था + इवस्               7.4.59 ह्रस्वः । ~ अभ्यासस्य
थ स्था + इवस्                 7.4.60 शर्पूर्वाः खयः । ~ अभ्यासस्य
त स्था + इवस्                 8.2.54 अभ्यासे चर्च । ~ झलाम्
त स्थ् + इवस्                  6.4.68 आतो लोप इटि च । ~ अचु क्ङिति आर्धधातुके
तस्थिवस्
Declension of प्रातिपदिक तस्थिवस् in neuter
तस्थिवस् + सुँ 1/1             4.1.2 स्वौजस्....। ~ ङ्याप्प्रातिपदिकात् प्रत्ययः परश्च
तस्थिवस्                        7.1.23 स्वमोर्नपुंसकात् । ~ लुक्
तस्थिवद्                        8.2.72 वसुस्रंसुध्वंस्वनडुहां दः ।
तस्थिवत्                         8.4.56 वावसाने । ~ चर् झलाम्
तस्थिवस् + औ 1/2           4.1.2 स्वौजस्....। ~ ङ्याप्प्रातिपदिकात् प्रत्ययः परश्च
तस्थिवस् + शी                7.1.19 नपुंसकाच्च । ~ औङः शी
भसंज्ञा for तस्थिवस्         1.4.18 यचि भम् । ~ स्वादिषु असर्वनामस्थाने
तस्थि उ अ स् + ई            6.4.131 वसोः संप्रसारणम् ।
तस्थि उ स् + ई                6.1.108 संप्रसारणाच्च । ~ पूर्वरूपम् अचि संहितायाम्
त स्थ् उ स् + ई                इट्-आगम should not have come when संप्रसारण is to happen.
    (SK) अन्तरङ्गेऽपि इडातमः संप्रसारणविषये न प्रवर्तते, (प. 57) अकृतव्यूहाः पाणिनीयाः। इति परिभाषया
त स्थ् उ ष् + ई                8.3.59 आदेशप्रत्यययोः। ~ सः मूर्धन्यः
तस्थुषी
तस्थिवस् + जस् 1/1          4.1.2 स्वौजस्....। ~ ङ्याप्प्रातिपदिकात् प्रत्ययः परश्च
तस्थिवस् + शि                7.1.20 जस्शसोः शिः । नपुंसकात्
सर्वनामस्थानसंज्ञा for शि  1.1.42 शि सर्वनामस्थानम् ।
तस्थिव नुम् स् + इ            7.1.72 नपुंसकस्य झलचः । ~ सर्वनामस्थाने नुम्
तस्थिवा न् स् + इ             6.4.10 सान्त महतः संयोगस्य । ~ न उपधायाः दीर्घः
तस्थिवांस् + इ                 8.3.24 नश्चापदान्तस्य झलि । ~ मः अनुस्वारः
तस्थिवांसि                      8.3.59 आदेशप्रत्यययोः। ~ सः मूर्धन्यः

2017年7月29日土曜日

幸せを増やす智慧を、「サット・サンガ」とうかたちでシェアできたら、



ヴェーダーンタの文献、サンスクリット語文法、チャンティング等の
「勉強!」にがっちりコミットしたい訳ではないけれども、

なーんとなくでいいから、
だいたいどんなことを勉強していて、なぜそれににコミットしているのか、
といった感じのことを、聞いてみたい。と思っている人に向けて、

「勉強会」というよりも、「サット・サンガ」というかたちで、
 インドの文化の根底にある
「人間の幸せの追求の手助けになる知識」
をシェアできたらな、と考えています。

サット・サンガで話を聞いた後は、

考え方が大きくなった。
人生の意味が明らかになってきた。
世界の見方、世界との関わり合い方が、クリアーになった。
あらゆるものごとについて、その本質とは何かを問いかけて考えるようになった。
国籍や文化・宗教の違いを超えた価値観で、ものごとを考えられるようになった。自分の大きさを知ったから、あらゆるものに思いやりを持って行動するのが簡単になった。

と思えるようになって欲しい。


この「サット・サンガ」では、
インドの伝統で自己成長の手段とされている「ダーナ」を、
もっと直接的に体験してもらうために、
私がダクシナを集めて寄付に回すよりも、
聴きに来た人は参加費の代わりに寄付というかたちで主催者の方に託して、
主催者の方は、支援したい団体に直接寄付を送ってもらい、
参加者にも報告してもらって、皆で喜びをシェアできるようになればいいな、
と考えています。


こんな感じで、「勉強会」よりももっと気軽に、「サット・サンガ」を、
全国のスタジオやカフェ、教室などで開催して、
より多くの人々に、人生をより豊かにするお手伝いができればな良いな、
と考えております。


2017年7月28日金曜日

サンスクリット―ヒンディー 時間のボキャブラリー

私が日々参考にしているサンスクリット文法書は
殆ど全部、サンスクリット語のみ、もしくはヒンディー語での解説です。
英語訳は当てにならないものが多いので基本使いません。
もちろん、既存の日本語訳のサンスクリット文法書なんて、絶対に使わない。
私が一から伝統に沿って書き直します。
そういう訳で、ヒンディー語を知らないとどうにもならないけど、
サンスクリットを知っていると、ヒンディーもそこから大体学べます。


1、今日 today
2.明日 tomorrow
3.今 now
4.昨日 yesterday
5.明後日 day after tomorrow
6.明々後日 the day after the day after tomorrow
7.おととい day before yesterday
8.先一昨日 the day before the day before yesterday
9.これから来る(来~) the next ~
10.過ぎた(先~) the last ~
11.一週間 week
12.半月 fortnight
13.月 month
14.年 year
15.年 year


時間が出来たら、一日一語に綺麗にまとめ直そう。。


2017年7月26日水曜日

「頑張らない」について立ち止まって考えてみる。


最近の日本では、「頑張らない」が合言葉になっているように見受けられます。

必要な時には必要な程度に正しい方向で頑張らないと、何も達成できないのに?


頑張ることに問題があるのではなく、

そもそも、「頑張る方向」と「頑張り方」が根本的に間違っていて、


その間違いに気づかずに頑張って消耗していることに、問題があるのです。



「でも、日本の社会では、頑張って勉強して大学に合格して、

頑張って長時間残業して、ローンで家と車を買って、頑張って、、、

という風に教育されているから、他の生き方が分からない」

というのなら、自分の考えの根底を成している社会の価値観から考え直す必要があります。



「頑張る方向」と「頑張り方」について、

立ち止まって、自分の頭で、正しく考えてみる。


世の中誰でも皆それなりに考えていて、考えていない人などいませんが、

下手の考え休むに似たりですから、

賢明で正しい考え方に導いてくれる、智慧が必要となります。


ヴェーダの教える伝統文化では、

社会のありかたとは、

「個人皆それぞれの幸せの追求」 の為のインフラを提供すること

に徹底しているので、

そのような社会での価値観において、

「今ここで自分がするべきこと」とは、

宇宙の在り方と調和していて、すなわち、

自分の幸せと社会全体の幸福度に繋がっているものです。


 しかし一方で、現在の日本や世界において、社会のシステムは、

「一部の資本家に富が集中する為の仕組み」になっているので、

普通に学校に行ってテレビを見て、広告とプロパガンダに洗脳されながら、

みんなと一緒の価値観で生きていたら、

普通に思いつく、「社会人として、家庭人として、個人として、するべきこと」とは、

一部の資本家が得をすることに繋がっているのではないのか?

自分の幸せの追求に貢献しないどころか、

社会にも、あらゆる生き物にとっても、誰にとっても、良くない事なのでは?

といった疑いを持って、一から自分の頭で考え直す必要があります。




どんな言葉でもそうですが、

みんなが言っているから、そのまま自分も「頑張らない」と言ってしまうのではなく、

「本当にこれば頑張らなければならないことなのか?」

「頑張らなくていいことに、頑張ってきたのではないか?」

「その間に、頑張るべきことに、頑張らなかったのではないか?」

「今自分がするべきことは何か?それは自分も含めた全ての生き物の幸福に貢献するものか?」

「その為に、何に向かって、どの程度頑張るのか?」

といったことについて、毎日、都度都度、考える癖をつけていれば、

そもそも、変な頑張り方をして消耗・疲弊することもなくなるので、

「頑張らない」という言葉も必要なくなりますね。


2017年7月24日月曜日

ヴェーダーンタの教えは誰の為?

ヴェーダーンタの教えが、ヨガ教室だけに閉じ込められているのは勿体ないと思い、
コラムを書いてみました。
ヴェーダーンタの教えは、
幸せについて真剣に考えだした、あらゆる人の為にあるものです。

この世の中に溢れている見せかけのゴールが、見せかけであると見抜けていて、
じゃあ、自分の本当に欲しいもの、本当のゴールとは何か?について、
ヴェーダが答えをくれるのではないか、というシュラッダーを持って、
きちんと勉強したい、と願い、その為に時間を作れる人なら、
誰だって、ヴェーダーンタの教えを得て理解できる資格があります。

もちろん、そこまで真剣にきちんと考えらるには、
心が成長していなければなりませんから、そのように考えられる人は、
家庭や社会での義務を果たしながら、ダルマに沿った価値観に導かれて、
心を成長させる生き方をしてきた人です。

ヴェーダーンタの教えを理解する為に、
その人の職業や習い事、嗜好、健康状態、見た目、学歴、経験、家族構成、
性別、国籍、宗教などは全く関係ありません。

人は普通、それらのもので自分や他人を、
認識・判断、マル・バツ、イエス・ノーをしますが、
ヴェーダーンタは、それらに全く触れられることも染められることも無いのが、
「自分の本質・真実」だと教えているのです。

ゆえに、ヴェーダーンタの教えに向かう時は、
今までの認識が間違いがあれば、それを間違いだったと認められるオープンさを持って、
「自分とは何か」という今まで自分が勝手に作り上げて来た結論は横において、
真っ白な気持ちで向かう必要があります。

Medhaみちかの関連サイト