2017年5月22日月曜日

じゃあ、何をどうしたらいいの?


下の絵に描かれているのは、
生まれて、学校に行って、就職して、家族を持って、死ぬ、というベルトコンベアに乗っている人々。
上には監視カメラがあり、逃げ出す人を照らし出している。  
そして、こう書いています。
「あなたは、単に働いて、請求書を払って、死ぬためだけに生まれたのではない!」 
 

でもさ、じゃあ、何をどうしろというのでしょうか?
これをきちんと答えられる人が、私達の社会にいますか?

問題は、学校でも、仕事でも、家族でも、
生まれて来ることでも、死ぬことでもありません。

問題は、
じゃあ、人生で何を手に入れるべきなのか?
自分の本当に欲しいものは何のか?
ということを、知らないこと。

しかも、知ろうとも考えようともしない。

資本経済社会は、「もっと生産して、もっと消費しなきゃ、幸せになれないよ」というアイディアしか知らない。
それ以外の価値観を教える文化は隅っこに追いやられた。

なぜ今回人間として生まれて来たのか?
と教えられる社会に生まれてこなかったら、こうなるのも仕方ない。

自分の本当に欲しかったものを知り、それを得る手段を知れば、
学校も、仕事も、家族も、そしてそれらが無い人生も、
全ては自分を磨いてくれる幸運に満ちたチャンスです。




2017年5月19日金曜日

群盲象を評す 


「群盲象を評す」とは

 


私がヴェーダーンタの勉強を始めた頃に聴いた、
「知る対象物に合った、適切なプラマーナを使わなければ、
それを正しく知ることは出来ない」
ということを教える時に使われていた例え話なので、
てっきりヒンドゥー文化のものだと思っていましたが、
ジャイナ教、仏教、イスラム教、さらにキリスト教でも、
説法や説教で引用されていると、最近知りました。

そりゃ、ヒンドゥー教だったらもちろん、陸続きなんだから、
仏教経由で東に行って東南アジアや日本まで行ったり、
西側にも広がって当然ですよね。
別にこの例え話のオリジナルのソースがヒンドゥー教じゃなくてもいいですしね。

いろんなヴァージョンがありますが、話はだいたいこんな感じです。

一匹の大きな象の周りに、目の見えない人が何人か集まって、
(もしくは暗闇の中に何人かが集まって、)
自分達の前にあるものが何か知ろうとしていました。
 

目で見て知ることが出来ないので、
いろいろ触ってみた感触で、それが何かを結論付けます。
 

象の足を触った人は、「象とは、太い柱のような生き物です」 と言い、
象の鼻を触った人は、「いやいや、象とは、大蛇のようです」 と言い、
象の胴体を触った人は、「象とは、大きな壁のようだ」 と言い、
象のしっぽを触った人は、「象とは、長いロープのようだ」 と言って、
結局みんなバラバラの結論に辿り着きます。



「群盲象を評す」の例え話が「群盲象を評す」のようになってる?



そもそも、全体を知るためのプラマーナに欠落した人達にとって、
この例え話が何の役に立つのだろうか?
と、正直とても不思議に思いました。

そういうわけで、それぞれのヴァージョンにおいて、
例え話が教えようとしている教訓を斜め読みしてみました。

「人それぞれ限られた知る力で得られるのは、小さな知識だけ。
それで全体像を知ってると言うのは、危険である」

ってだいたいこんな感じだったと思います。

それってヴェーダーンタでも同じ?のようにも見えますが、

決定的に違うのは、

知りたいものに見合った、
正しいプラマーナがなければ、
間違ったプラマーナをいくら使っても、
正しい知識は得られない、

と言うことです。

赤いバラの、「色」を知りたければ、
「目」というプラマーナを使わなければなりません。
いくら触っても、匂っても、目を開けない限り、
それが赤だとは分かりません。

同じことが群盲象を評すの例えで教えられているのです。
(ヴェーダーンタではね。)

あらゆる経験は、対象物を知るためのプラマーナであって、
主体の本質を知るためには出来ていません。

自分の身体はもちろん、感覚も心も考えも、対象物なのですから、
いくらミラクルな経験をしても、思考を深めても、瞑想を深めても、
どこまで行っても、対象物を見ているだけです。

それはちょうど、目が見えない人達が、象を触っているのと同じ。
必要なのは、全体を見る目というプラマーナであって、
象を触った感想を100集めても、象にはなりません。

この、「それぞれの対象にはそれぞれ適切なプラマーナ」
というコンセプト無しに、いくら象を触り続けても、
それは単に「不適切なデータの寄せ集まり」になってしまいます。

不適切なデータをどれだけ集めても、適切な知識は得られません。

「自分の本質とか、世界の本質とか、真理とか、
限りある知性を持っている人間には絶対に無理!」
というのも尤もですが、それは、
もう一つのプラマーナの可能性を知らないが故の結論です。


柱と蛇と壁とロープを組み合わせても、象にはなりませんし、
「いやいや、柱と蛇と壁とロープを組み合わせてたのが象じゃん?」
といっても、まず象の全体像を「見る」、「目」というプラマーナが無ければ始まりません。
目で見て、全体像を知って、初めて、柱みたいなのが足で、、、と言えるのです。


プラマーナというコンセプトを欠いた、さまざまな人々によって、
様々に解釈されている様はまさに、
「群盲象を評す」の例え話が「群盲象を評す」のようになってるじゃないか!
と思いましたが、他の解釈を読んでみて、比較することによって、
私の場合は、この例え話がうまいこと付いてる点を、より良く見ることが出来たので、
それはそれなりに私にとっては有用な点があったと感謝しております。
  

プラマーナが何か分かっていないから、何でも結局、「真実は体験するもの!」としか言えなくなってしまいます。
これが地球上の人類皆共通の混乱ですね。

ツールはツールであって、ゴールではありません

8月19日~25日の一週間、是非こちらにいらしてください。

南インドの豊かな自然に囲まれたグルクラムにて、毎日テンプルのプージャーに参加し、ヴェーダーンタ、サンスクリット、チャンティングを勉強する一週間です。

私の担当するクラスでは、
全てのヴェーダのエッセンスであるバガヴァッド・ギーターの、
さらにエッセンスの詰まったシュローカ(詩節)をセレクトして、
皆さんとシェアしたいと思っています。

「アーサナして、プラーナーヤーマして、瞑想して、
身体はスッキリ、マインドはクリアー。
アヒムサー(非暴力)やサッティヤ(真実を話すこと)も実践してるから、
心からは葛藤がどんどん消え去って、
仕事も人間関係もうまくいってます。」

それは素晴らしいことで、そうあるべきですが、
インドが人類に与えてくれる智慧とは、それだけで終わりなのでしょうか?

正直、それだけだったら、別にインドの智慧じゃなくても、
他にも同じようなこと教えている人や気付いている人はいっぱいいますよね?

クリアーで葛藤の無い心は、自分の本当に欲しいものを手に入れる為に、
必要不可欠なツールなので、軽視はできません。
しかし、ツールはツールであって、ゴールではありません。

ヨガ、アーユルヴェーダ、ガンダルヴァヴェーダ、
占星術、祈り、伝統的生活習慣、サンスクリットという言語、、、
これらのインドが人類に与えている智慧は、
それ自体がゴールではありません。

では、それらが終結すべき、最終的なゴールとは?
それは、全人類の幸せの探求が終結される、最終的なゴールです。
それを教えているのが、ヴェーダの最後の部分(ヴェーダーンタ)です。
バガヴァッド・ギーターは、ヴェーダーンタの文献です。
最終的なゴールだけでなく、それに必要な生き方を「ヨーガ」として教えてくれるのが、バガヴァッド・ギーターの特徴です。

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